「痛みの数値化」が問う対話の本質 厚労省の自殺予防AI検証
逼迫する相談現場の即応性と、機械が代替し得ぬ「聴く」倫理の境界
画面越しに吐露される「消えてしまいたい」という声に対し、まず配置されるのが計算式であるという現実に、相談現場からは戸惑いの声も漏れる。窓口の飽和や返信待ちによる対応の遅れを防ぐという行政の危機感は切実であり、技術による緊急度判定(トリアージ)は制度運用上、明快な解決策に映る。しかし、誰にも打ち明けられなかった苦痛を文字にして差し出した瞬間、その応答の起点にあるのが生身の人間ではなく、語彙の頻度や文脈の重みづけを演算する数理モデルであると認識されたとき、そこでのケアは何を意味するのか。迅速な介入が求められる現実と、自らの痛みが無機質なデータへと還元されていく違和感の乖離が静かに広がっている。
哲学者マルティン・ブーバーは、人間が他者と結ぶ関係を「私と汝」という人格的な出会いと、「私とそれ」という客体化・手段化の関係に峻別した。AIによるテキスト解析は、本来「私と汝」として向き合われるべき他者の固有の生を、分類・処理可能な対象へと置き換える側面を持つ。どれほど精緻な言語モデルであっても、その出力は過去の膨大なテキストデータの統計的相関に基づいており、目の前の一人が抱える固有の痛みを本質的に理解しているわけではない。機械が生成する整然とした共感の定型文は、対話の形式を整えつつも、他者が自らの孤独に真摯に向き合ってくれているという実感をもたらし得るのか、検証が求められる。
一方で、AIの介在がもたらす実務上の利点を一概に否定することはできない。対応の遅延が命の危機に直結する現場において、緊急性の高いシグナルを的確に検知し、人間の専門職へと引き継ぐ動線が機能すれば、防ぎ得た悲劇を回避する一助となる。しかし、過度な効率化によって損なわれかねないのは、言葉にならない沈黙や逡巡を受け止める「対話の余白」である。データ化しやすい定型的な表現が優先され、言語化の困難な微細な異変が見過ごされる傾向が定着すれば、相談者側が無意識のうちにシステムに検知されやすい表現を選び取る恐れもある。支援の標準化が進むほど、数値からこぼれ落ちる苦悩が見えにくくなるリスクは払拭できない。
自殺予防における技術の役割とは、人間の責任を肩代わりすることではなく、人間同士が対話の場にとどまり続けるための補助にとどまるべきである。行政が効果検証を進める過程で問われるべきは、正答率や応答時間といった処理能力の指標にとどまらず、アルゴリズムを介した支援が人間同士の信頼をいかに育み得たかという質的な評価だ。苦境にある他者と向き合い、安易な解決策を出せないまま共に居続けることの重みこそが対話の核である。支援現場への技術導入が進む時代だからこそ、機械を道具として適切に管理しながら、他者の尊厳を引き受ける最終的な責任を人間が手放してはならない。